Michi Kurumi ∞ 思いを自由に。

キレイなものも毒もいっしょにここに。日々ひらめいたこと等々。わたしはわたし。自分サイズで生きていく。

努力とか忍耐とか

 

目の前の、何故かは分からないけどやんなきゃならないこと。

または自分がそう指定した事柄。

 

自分で決めたけどどうしてもやりたくないとき。

さああなたはどうしますか。

 

仕事なら、報酬があるならやりますか?

好きでやってることならやりたくなくなったりしない?

怠けてるとか逃げてるとかそんな風に感じますか?

それとも自分の深層心理で拒絶して本当にそっちの方向は何かが違う、間違っていると感じているのにどうしても抜け出せないから立ち止まっているの?

自分の「やりたくない」に従いますか?

 

私が立ち止まっている理由。

それは、「それをして何になるのかが分からない」からです。

 

これ、とっても受身ですよね。

いまガマンの状態なっているのです。

ガマンって生産的じゃないんですよね。

シャッターを閉めて嵐が過ぎ去るのをただ待つ。時間が過ぎるのを待つ。

そこで動きはないわけです。

実際に嵐が来ているわけではなく自分で想定した悪天候なのです。

だから嫌がってためらっている時間がただただ勿体ないんです。

 

なんでガマンして、敢えて動かないようになったのか。

自分から動くとややこしいことになる。

もっと言うと、他人とのかかわりの中で摩擦や衝突することを避けたほうが良いと感じ始めたから。

 

ここでハタと考えてみると、

そもそもそれは自分がやりたくて始めたことな訳です。

誰にも強制されていません。

自分の目的目標を持って、意欲的に始めたはず。

それがちょっとした牽制や価値観の相違によるなんとも言えない空気であっさりとやめようとしているんです。

やめろと言われたわけでもない。

 

決めるのは自分。

どうしたいかどうするかを決めて進むのはあくまで自分なのです。

当たり前ですけれども。

それを誰かがこうだから、こう言ったから、雰囲気がといって逃げる口実をいつしか探しているのも自分なんですよね。

 

誰のせいでもない、自分のことに責任を持てばこんな風には惑わないのかもしれません。

 

 

今一度、目的は何か。

自分はどうしたいのか、どうなりたいのか。どこへ向かいたいのか。

それを想像したとき、そこに誰かが何かの注文をつけてくることはきっと思い浮かばない。

ただシンプルに目指す方へライトが向けられている。

進む道のみが照らされている。

わき道は見えません。

推進力があれば横からの牽引や圧力にも強いです。

多少の段差も越えていきます。

 

まずはそこの確認をもう一度。

そうすればそれは受動ではなく能動。

能動の中でしか得られない満足感は健全に生きていく上でどうしても必要なものだと思います。

 

ずっと受身だと、何のために生きているかのさえ見失う。

それは切ないです。

そしてそんな風に切なくなる考えをするときはその方向は間違ってるとき。

そのサインを見逃さないように。

 

Michi Kurumi ∞

 

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