認知の歪みについて
ちょっとした周囲の言動の変化。その裏を深読みする癖。その原因を「私が嫌われたからだ」と思い込む癖。過剰な自意識。すぐに勘繰る。
周囲がみんな敵に見えたら黄色信号。思い込みの始まりである。
でも思い込みじゃなかったら?
敏感に察知する周囲の空気、歓迎されていない雰囲気を否定できるか?
お呼びじゃないんだと感じるのは自意識過剰なのか?
おそらくこの敏感さや深読みする感じは周囲にとっては扱いにくく面倒なものなのだろう。できれば放っておきたい関わりたくないと思うのだろう。
さて私がそこでできる事はというと、そこに無理して滞在しないことと、自分の楽しいことや目的に目を向けること。
疎外されて悔しい?あっさりその状況を受け入れるのはプライドが許さない?
それだ、そこだ。問題は。素直に離れよう。しがみつく意味はない。
自分が後味の良いように。場をキレイに保つように。世の中は誰かの善意と努力でできている。悪意と怠慢に落ちやすいけど。
私は私。周囲の反発を受けても、生きるしかない。周囲に認めてもらおうとかそんなのいいんだよね。それを欲しがるのがうっとおしいんだと思う。頑張るのがウザイんだよきっと。
ほどほどに、かな。モヤモヤするけど。少し離れたい。離れよう。お腹一杯。この感覚は多分間違ってない。相手をどうこうするんじゃなくて自分の感覚として。ちょっといましんどいんだよね。
人を信じられないのは自分を信じられないから。表と裏があるから。でも人ってそんなものじゃない?
世の中と自分自身に過剰な期待を寄せすぎだ。それでは傷つくばかりだ。日常から離れると、中に舞うように安定しないよ。
必要最低限の礼儀を守ればあとは自由にしよう。
孤独を引き受ける、とは?
自立することなのだろうな。他者の評価や庇護の下でなく。自分のスタイルを誰かに気に入られるためではなく貫くことかな。ターゲット、大事にしたい相手は誰か。そこ、それを間違ってはいけない、間違えてた、忘れてた。